何故、自己表現を苦痛として用いられるのか

昨今の雪により多大なる影響を及ぼす寒波。

通常であればこれが本当の「冬」なるものなのだろうが、いかんせん今年の正月はとても人間には心暖かく、体も活発に動けるであろう気温となっていた。

しかしながら実質気温と人間の感情というものは何か関係があるのではないか、と思わざる負えない部分があるだろう。

 

誰もがこのコミュニケーション必須と言われるこの社会で一度はぶつかる悩みがあるだろう。

それは「他人との関わり方」である。

通常生命の半分はここまで「語源」というものを習得してはいないし、ここまで発達した脳を持った生物もいないだろう。

人間くらいなものだ。

遠く目の前にいない相手といやがおうなくコミュニケーションを取らなければいけない生物というのは。

 

そんな中でやはり気になってくるのは他人の言動である。

どんな些細なことでも実際に会っているよりも格段に相手の状況が読み取りずらく、かつ不安にさせやすいものもこれといえる「文章」である。

 

私のテリトリーとなるTwitterには例のごとくたくさんのユーザーがリアルタイムに現状をつづっている。

しかしながら、半数以上が己の殻に籠り独りでに自嘲や鬱のいわゆる「病みツイート」をしているではないか。

この他人とのコミュニケーションを元来の目的とするTwitterというSNSで誰とも語らずただただ悶々と暗い独り言を連ねる軒並みの猛者達。

たくさんの人間があふれる中で孤独になるその原因。

それは少なからず疑問になることもあるのではないかと思う。

 

確かに誰だって苦悩や辛いこともあるだろう。

それは人間なのだし生きていく中で山や谷がなければ平坦で一直線な道となる分けだ。

確かに楽ではあるだろうが決して漢字のごとく「楽しい」わけではないだろう。

もちろん病むこと自体を否定しているわけではないのだが、見ていると「どうして長時間その気持ちを維持できるのか」が不思議でたまらないのである。

 

ましてやまだリアルをつぶやくならまだいいだろう。

ただし、キャラクターとしてなりきる輩に「病むのが前提」としている意味が到底理解できない。

一般人からしてみればなりきるキャラ=好きなキャラなわけでありそのキャラを病ませる、つまりはつらい状況に陥るように見せかける、などという行為はまったくもって理解できないであろう。

 

なりきりとしてキャラクターという立ち位置からするなら物語制も十分必要であり創作キャラであれば致し方ない部分も多数ある。

そんな中で深刻なシーンばかりの抜粋というのは正直言えばあまり心持ちよくないといえるだろう。

それはつまり常に残虐なシーンが繰り返されるアニメのような断片。

Twitter自体は文字数が140字(2016.1.24現在)なので当然書きたいこともおさまらないのは当たり前だ。

仕方なく次のつぶやきにつなげるかリプライで見やすくするか、が方法として挙げられるだろう。

 

本人から見ればキャラクターの成長過程もしくは生成過程ではあるだろう。

だがはたから見れば「別に興味のないものを見せられている」のとかわらないのだ。

 

よくタグで「~RTくるまで浮上禁止」なんていうものを使用する人がいる。

大抵こういうものは明るい者が使えばなにかと面白いかもしれない。

属にいう「構ってちゃん」となるわけなのだが、前記事の通り人間という生き物は注目を浴びずには生きていけない生き物なのだ。

それは仕方のないこと。

問題なのはその「注目を浴びる方法」にあるのではないかと私は考える。

 

人間は寒くなるとどうしても動きが鈍ってしまう。

それは体温を放出しないためであるし、体感温度も変わってくるからだろうと勝手に考えている(あくまで持論)

そんななかでやはり語るのは「今日も寒いな」とお決まりのセリフ。

皆が必ずつぶやくであろうこれ。

正直返答は誰だって思い浮かぶだろう。

しかしこの単語は出現率の高さからすでに何人かにその返答を行っている可能性がある。

もちろん夏の「暑いな」も同等ではあるが問題はそのあとに続くロルに大きなちがいがあるのだ。

夏であればそのまま水につかるなるスイカを食べるなりと「動きのある表現がしやすい」イベントが多い。

逆に冬であれば大抵は「屋内」の行動となりどうしても「小さな動きで表現が難しい」イベントとなってしまう。

もちろん手練れであればいくらでも表現は見つかるのだろうがどう頑張ってもバリエーションは限られてしまう。

多くの人が同じ表現をしほとんどの回答が同じとなるこの冬では何をしたって雪のように埋もれてしまう。

同じことをそう何回も返信する気にもならないのは当たり前で、結果反応は希薄となるだろう。

 

なにか面白いことをすればいい、というわけではないが「病み」によって負の感情をあらわにしても誰も近づこうとは思わない。

それは誰しもであり最近はその「病み」で”構ってもらえる”という妄信にとらわれる人が多いのが最近の悩みである。

 

ヒットするものは誰もが「楽しい」や「面白い」といういわば「快感」が伴わなければ実現はしない。

最近の私も少なからず他人事ではないのだが、こうして言霊にすることで自分を鼓舞する、という完全ブーメランを実現させたわけだ。

そしていま一番私がしなければならないことというのは一択である。

 

布団からでることだ。

 

それでは今日はこの辺で…