自虐と自慢の対の同義

久方ぶりの書き込みとなる。

積雪の多い急な寒波もなかったように、いつも通りに戻る気温。

天気はとても気まぐれで望んだようには変化してくれない。

それは人間の気分となんら変わることはなく、時とともに移ろう世の中は人それぞれのこころの中のようでもある。

この心の中、というものだがよく、目につく人、というものは目立ち、自慢を繰り返す者が多く見受けられる。

それは大抵、人とはなにかが違い、得意なものや特技等があり、普通の人々よりなにか優れていたり変わっている人によく見受けられるものである。

この「自慢」というものはなにも簡単にできるものではないと私は思う。

まず第一に当然、特技、人より優れているものがあるかどうか。

もしなくても第二には「それを公にさらすことのできる勇気」がなければ実現しない。

昨今では変わったものを「特技」としてみいだす人も増えているだろう。

そう、人は注目を浴びるために公にされてもいいという「勇気」が絶対条件でつきまとうのである。

 

さて、そこで日本人の性格の特性を見てみようではないか。

何事も団体行動であり、必ずその中にはリーダー的な存在がある。

これはいわば「小さな勇気」が形を表したもので最初は何となく言い出せずも、同士に気持ちを分かち合うことで徐々に「勇気」が生まれ、最終的に発言することができるまでに人間は変われることができる。

 

しかし、そういうものは大っぴらにも環境で不遇な人々、いわゆる仕事や団体のなかで同じ境遇の不満がある人達がなしえるいわば一種の「技」である。

対して、義務教育もしくは親の加護の中にある人々というのは、あまりそういう団体には発展しにくいと考えられる。

もちろんそれは自分に課された「責任」というものの量が違うからである。

責任をもつ人々というものはその分だけの「報酬」がありその報酬で生計を立てている。

そんな簡単には発言することはできないし、現状を崩したあと、自分がどういう状況になるかなど一目瞭然なのである。

 

では、責任の伴わない「学生」と呼ばれる年齢層というのはどうひとから注目を浴びることができるのか。

 

もちろん、特技があればだれだって少しは自慢ができるだろう。

しかしながらこの「責任の伴わない人」というのは大抵は年齢がまだ浅く自分自身さえまだ見つけきれずにいる人もたくさんいることだろう。

そんな人々に特技やどうやなんてので輝くなんてよほどのことである。

 

委員会や委員長、こういった役職も大抵はじんぼうが熱く、かつなにか特技をもっているものがほとんどだと思われる。

人間というものは憧れから成長するものである。

それは好きな物への興味から始まり人生の一番の魅力ともいえる。

前記の通りその「興味」がなされないもの、またはスランプ状態にある者というものは憧れどころか興味もやる気もわかなくなるものである。

 

このご時世では結果がすべてとなっている。

それはスランプにしろ夢を探しているときにしろ「その時にやった努力」というものは全く目を向けられることはない。

それどころか自信を無くし自虐とまでなっていくであろう。

 

自虐というものは結果がまだ得られないが努力はしている、ということなのではないか、と私は思う。

それはつまりそれだけ気にしているのだ。

どうにかして現状を変えたいと思っているのではないかと私は思う。

もちろん自虐をネタにしているものはたくさんいる。

それは私にも当てはまるであろう。

しかしいつしかそれは自慢へと変わっていっているのではないだろうか?

 

ある意味で自虐ネタというものはプラス思考も若干含まれているものだと思う。

それは病むことで自分の殻に閉じ込めるのではなく精一杯を公にすることで個々のキャパシティとそれにみあった努力というのが結果的に目に見えてわかる。

 

この結果ばかり求められる世界でこれほどまでにとらえ方の変えられる事例もなかなかないのではないのだろうか?

確かに自虐というものはあまりよろしくないのかもしれない。

もちろん殺傷なんてものはもっての他である。

しかしながら自分の現状報告として、何をどう進めているのかの証明として、殻に閉じこもってしまうよりも見せつけていった方がいいのではないのだろうか?

 

それは継続でこそ人々は見てくれているものなのだ。

それがたとえネットであろうとなんであろうと「必ず認めてくれる人」を見つけやすい世界にもなっているのだから。

 

 

 

そうして私は今日も玉ねぎのあく抜きを失敗するのであった…(辛い)